2021-01-31

『映画えんとつ町のプペル』鑑賞レビュー(ネタバレあり)

どうも、こんにちは。McFly ( @HI-ENDBLOG ) です。

新作映画が「劇場で公開される」ってめちゃくちゃありがたいですね。
もうかれこれ観たかったあれやこれやが公開延期、延期で悲しい限り。
やっぱり映画館で映画をみてどうのこうのと言いたいんですよ。
それくらいの程度で人は幸せになれるんですから。

1日も早くあの頃の平穏な暮らしが戻る事を祈りつつ。

こんな感じでまとめてます➡️

あらすじ

信じて、信じて、世界を変えろ。
厚い煙に覆われた“えんとつ町”。煙の向こうに“星”があるなんて誰も想像すらしなかった。この町でただ一人、紙芝居に託して“星”を語っていたブルーノの 息子・ルビッチは、父の教えを守り“星”を信じ続けていた。しかし、ルビッチは町のみんなに嘘つきと後ろ指をさされ、ひとりぼっちになってしまう。そしてハロウィンの夜、ゴミから生まれたゴミ人間・プペルが現れ、のけもの同士、二人は友達となり、ルビッチとプペルは「星を見つける」旅に出ると決意する。父を 信じて、互いを信じあって飛び出した二人が、大冒険の先に見た、えんとつ町に隠された驚きの秘密とは?

Filmarks「映画えんとつ町のプペル 」より

評価

満足度 ★3 (星10段階評価)
:劇場鑑賞

あっさり感想

・未知なる生命体と絆を深め合う感動ファンタージーに隠された不穏な関係性。
・映画版における「決別」が「死刑宣告」としか感じられない。
・映画版とは全く異なる絵本版における「友情」のアプローチ。

ガッツリ批評

クォリティも作者のネームバリューも超一流なこの作品。
映画の内にも外にもとにかく「情報量」が多いので、今回では映画版で1つの要となっている【友だち】というキーワードにのみ絞って読み解いてみる。

ルビッチには「友だち」がいない。

それは彼の母親を含むこの世界における全住民周知の事実らしく、ルビッチ少年自身もまた亡き父親の「信じぬくんだ。たとえ1人になっても。孤独でも自分の信じる道を突き進めばいずれ同志が集まる。それがお前の友だちだ」と、教えを信じ、今は友達がいなくともこの孤独は報われると、空が煙に覆われた町の下で広大な星空を夢見続けているのである。
*父親のセリフは結構適当に覚えてたでの実際のセリフとは異なります。1プペしかしてないので…悪しからず。

なんとなくルビッチ少年の状況には共感できる。

自分と意見が食い違う他人と無理に同調して生き続ける事に僕自身もほぼ意味はないと思っているし、ましてや町には自分の父親が語った夢を笑いものにした連中に溢れているのである。こんな世界で同志に出会えれば奇跡。一生の宝。そんな幸せはないだろうと。

“自分を信じられなくなった時が最も辛い” という事を知る者にしか言えないセリフで非常に力強い。こんな事を言える父親になりたいと誰もが思うだろう。そんな立派な人間にはなかなかなれるものではないが。

そんなある日、空からゴミ山に流れ落ちた隕石がゴミに生命を宿す奇跡が。

この”奇跡”については深堀りはない。奇跡なんだから解明する必要もないし、世の中解明できない奇跡もあるし、韓国映画「サイコキネシス-念力-」でも奇跡はただ奇跡を宿してサッと去っていった。(この展開流行っているのか…)

“ゴミ人間”・”異端者”と称され、生まれてすぐ街中で迫害の対象となった謎の生命体。ゴミはゴミ箱へと再び焼却炉に逆戻りの洒落が効いている大ピンチの最中、ゴミ人間はたまたま遭遇したルビッチ少年に救われる事になる。

未知との遭遇との運命の出会い。物語の始まりである。

謎のゴミの生命体への驚きと、彼から放たれる酷い悪臭に、最初は身の危険を感じたルビッチ少年だったが、焼却寸前で命からがら脱出に成功した協力プレーの高揚感からか、焼却炉からの生還後には打って変わって親密ムードに。

グループ形式の謎解きゲームで知らない人とインスタント的に仲良くなるあの感じ。

そこでゴミ人間に名前がないと知ったルビッチ少年は、この謎の生命体にハロウィンの夜に現れた「ハロウィン・プペル 」という名前を授けるのである。

更にルビッチ少年はプペルにこう告げる。

「友だちになってよ」と。
「なって!なって!友だちになってよー!!」
と。

ここまでの前談を基礎にその後の物語が構築されていくのだが、聴くにはハートフルな流れだが、この「友だち申請」があまり穏やかではない。

謎解きゲームで強制的にグループになった他人にゲームをクリアできたからと言って「友達になりませんか?」と手を差し伸べるだろうか。ましてや第一印象で”コイツ、ヤバそう”と感じた相手に。

相当な運命を感じたか、ナンパ目的か、友達になりたい明確な理由と強い意志がない限りそんな危険な友達申請をわざわざ出すことはないだろう。

でもこの時、ルビッチ少年にはそんなゴミ人間と友だちになって欲しい明確な理由があったのである。

この街には “ハロウィンの日は子どもたちは友達と遊ぶもの” という常識があるらしく、そもそもルビッチ少年も、そんな日に母親を心配させまいと「友達と遊びに行く」と “嘘” を告げ外出(実はお仕事)していたのである。

ルビッチ少年にとって「友だち」とは

要するにこの展開の中で読み解くと、ルビッチ少年の「友だちになってよ」には明確な意味がある。どう取っても母親を心配させまいとする言い訳。つまり彼のアリバイ工作のための友達申請に過ぎないのだ。

一方ゴミ人間、プペルはというと、

「ともだち…ってなんですか?」

物語の半ばで知る事にもなるルビッチの父親の教え「いつかお前に着いてくる仲間が現れる」という角度とも異なる「友だち」の出現。

この映画は何を伝えたいんだ..と疑念が浮かぶとともに「友だち」の概念すら知らないゴミ人間プペルが「子どもの言い訳のため」にまさに今利用されようとしているこの展開に、そんな話?と更に疑問符が追い討ちをかける。

おさらいしておこう。

1)”異端者”と叫ばれ誕生直後にこの世界の “迫害の対象” となったゴミ人間。
2)そんなゴミ人間をプペル と “名を授けてくれた” 少年が現れる。
3)その少年は孤独なゴミ人間に “友だち” になってと告げた。

夢のような時間

ルビッチ少年の言い訳作りから始まった「友だち生活」ではありながらも、その後、2人の関係は本当の友だちさながら深まりあっていく。

友だちに自分の生まれ育った街の話をする。
友だちに自分の家族の話をする。
友だちに自分の夢を語る。
友だちと秘密を共有する。

ルビッチ少年の “もしも「友だち」が出来たなら” の夢がたくさん詰まったシーンが展開され、二人の愛らしい時間をうっとりと眺めつつ、

「序盤ルビッチを疑った自分が悪かった。僕は馬鹿だ。」

と追加のポップコーンを頬張り、感動を共有し、引き続きプペった。

感動の涙

のも束の間、ある日ルビッチ少年が街の悪ガキに絡まれ “ゴミ人間の臭さ” を揶揄われる騒動に。くる日も来る日もプペルの身体を洗ってあげていたルビッチ少年は傷心。更にはプペルにだけ語った “ホシを見つける夢” をダメ押しで揶揄われ、言い返すことも出来ず、ルビッチ少年はプペルの元に赴きこう告げるのである。

「君のおかげで嘘つき扱い。いくら洗っても臭くなる君の体のせいで。君とはもう遊ばない」

おいおいおい。待てよ、ルビッチ。

まぁ、幼心傷ついたのは分かるけど、君から勝手に「友だちになって」と頼み込んだ相手に、ただ「臭いから」「笑われたから」以外の真っ当な理由も説明もなくそれは流石にないだろ。

確かにプペルにだけ語った夢を自分の知らないところで語られている事にショックを受けたのかもしれないけれど、そんな唐突に一刀両断されるとこちらも驚いてしまうよ。

ましてや “異端者” 。町中から追われる身であるプペルにとって「ルビッチ以外の身寄りがない」事も君が一番理解しているはずで、更には幼くして父を亡くした君にとって「孤独」がどれほど辛い状況であるかはこの物語の中で君が一番理解しているんじゃないか…

そんな君が、
プペルの「名付け親」でもある君が、
彼にとって唯一の「友だち」でもある君が、
彼に「孤独」という「制裁」を突如与えるのか。

「ともだち…ってなんですか?」

君はこう教えたじゃないか。

「えっ…えーと…隣にいてくれる人!!」

大黒摩季の「夏が来る」がリフレイン。(古っ)
お前、都合良すぎるだろ。

感動の涙というか、勘当の涙が流れそうになった。

死刑宣告

この後、再びプペルがルビッチ少年の前に現れる。

ルビッチ少年が失くしたといつの日か語っていた、父親譲りの大事なブレスレットをゴミ山で日々探し求めいていたため、身体にゴミの匂いが纏わりついていた事をプペル の「自己申告」により知る事になるのだが。

正直、ここでルビッチ少年の元を再び訪れたプペルには相当な覚悟と勇気が必要だったと思う。

「もう一緒に遊ばない」はこの年頃における「死刑宣告」に等しい。友だちのために尽くした時間が逆に嫌われる原因となり弁明の余地もなく死刑宣告。ましてや自分を名付けてくれた彼に「臭いから遊ばない」と告げられ帰る場所を失くした失望。ルビッチに問いたい。

もし、プペルが帰ってこなかったらルビッチどうしたの?
もし、プペルが町中でまたボコボコにされてたらどうしたの?
もし、プペルが「死んでたら」どうしたの?

あまりにも取り返しのつかない事態を奇跡的に取り返しがついただけの話で、味わう必要のなかった「真の孤独」をプペルは数時間(もしくは数日間)味わったのである。彼に何の罪もないのに。

僕に名前をくれたルビッチの元に帰りたい。
友だちの元に戻りたい。
やり直したい。
もう一度あの楽しかった時間に。

その一心で必死にルビッチが失くしたブレスレットをゴミ山で探し続けたのである。

辛すぎるだろ。

また、僕は臭いと言われないだろうか。
また、僕は突き放されないだろうか。
また、僕は無視されないだろうか。

絵本版で育まれている魅力

というわけで、なんて野郎なんだこのクソガキはと、名言溢れる物語の中で「自分を貫き通す事」に真っ直ぐなルビッチは「もうやめてくれ」と声を上げる市民に耳も傾けず、夢の”星空”への空路を開く。

ここまで来るとコロナ禍で「オリンピックを必ず開催する!」と豪語し続ける東京五輪・パラリンピック組織委員会の会長の森喜朗会長にまで見えてくる。確かに「やってみなくちゃわからない!」精神ではルビッチも森会長も共通している。

もうこの時点で僕は彼の夢を共に追う事はできていなかったのだけど、どうしてこんな考えをもった少年の物語が長らく指示されるのかが気になり”絵本版”にも目を通して見る事にした。

驚いた。

なんと絵本版には「友だち」という単語やキーワードは1つも登場しないのである。

それどころか、ゴミ人間とルビッチ少年の出会いや、そこから2人の関係性が築き上げられる過程、その後生じる2人の関係性の亀裂、再びプペルが現れ奇跡を共有する瞬間、星空を目指すフィナーレへの加速に一貫性があり中々見事な作品に仕上がっているのである。

映画版を見てしまったがために、プペルを突き放す下りは若干の疑問点は残るものの、絵本版だけ先に見ている状態であればページ間の余白や絵本独特の行間のおかげででそこまで気にならない流れだったかもしれない。

このルビッチならまだ愛せる。

加えてプペルの「奇跡のメッセンジャー」としての役割も十分に果たしている気がする。

「友だち」のような関係性がある「奇跡の出逢い」として物語が完結している。

トモダチ

「絵本版にはない展開」が映画版に多様に採用されていることがこの作品の1つのエンターテインメントとしての魅力で「知ってる物語」をわざわざ映画版で見直す意味もしっかりとある。脚色のアイデアは見事。

ただ、なぜわざわざ「友だち」を言語化して1つのテーマとして組み上げたのか不思議に思うほど映画版では終始ノイズとなっていた。

幅広い世代が楽しめるように仕掛けられた「わかりやすさ」なのか。もう少し子供たちの想像力を信じて絵本同様「友だち」を言葉として使わず上手く絆を描き出す方法は山ほどアイデア持ってただろうな作品の想像と創造のポテンシャルからも読み取れる。

未知の生命体と密かに絆を深める冒険物語として有名な「E.T.」。

友情映画の最高峰として「トモダチ」とE.T.が連呼していたようなイメージがあるものの、実は1度も「友だち」というキーワードが出てこない

大事なキーワードを言葉で表現せずに物語全体を通して観客の心に刻み込むテクニック。どちらが良いとも言えないが、言葉にする事で語らいの中でその言葉が明確な意味を持った映画版に比べ、読者に想像の余白を与えている絵本版に個人的には魅力を感じた。

ルビッチ少年の子どもらしい好奇心に溢れた物語ではあるものの、言い訳作りからスタートした関係性を自ら断ち切り、その後プペルを気に掛ける事もなく日々を過ごすというこの悪魔的展開。

「ともだち…ってなんですか?」

エンドロールで流れるプペルのテーマソングの歌詞に僕は壊れたプペルのようなただのゴミの目をしていたと思う。

なるほど、ゴミ人間は僕だったのか…

こんな人にオススメ

・1プペ目で2プペしたいと思った人
・空に星があるはずなんだけど生まれてこの方見た事ない人
・ゴミ人間に街で遭遇してどうしたもんかと頭を抱えている人

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