2018-04-02

北野武 著『新しい道徳』を読み終えて

atarasiidoutoku友情・努力・勝利!
どうも、こんにちは。McFly ( @HI-ENDBLOG ) です。
本日は芸人・映画監督 北野武著『新しい道徳』を読み終えての感想を。
はい。読書感想文です。

“道徳”や”道徳教育”を北野武なりの俯瞰視点から捉えるユニークな内容でした。
子供の頃からひねくれ者というか、マイノリティが好きで、周りと意見を合わす事をあえて避けてきたボク個人としてもとても救いになる考え方だなと楽しみながらススィーと読めましたのでご紹介致します。

ボクみたいにマイノリティ大好き!なあまり周囲と意見を合わすのが苦手な方や
自分の意見が大多数になってきた時に急に少数派の意見に変えたくなるような天邪鬼気質の方は絶対に気に入る1冊になるかと思います(どんな奴だよ)。

それでは長々とお付き合い頂ければ幸いでござる。

【道徳】どう-とく

人のふみ行うべき道。
ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般的に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力や適法性を伴うものでなく、個人の内面的な原理。今日では、自然や文化財や技術品など、事物に対する人間の在るべき態度もこれに含まれる。

-新村出版 広辞苑 第七版より引用 –

守ろう人権 無くそう差別 みんな一つの輪になって

小学校一年生だったとある道徳の時間。
「クラス全員で大きな声で読み上げましょう」と先生が黒板に大きく記した標語だった。

その頃は「とにかく大きな声で読み上げる事」がボクたちの競争で、大きな声を出す事で先生から褒められるものだから、とにかくまだまだ大声を出すのが大好きだったクラス全員がノドが吹き飛ぶほどの大声で標語の意味なんか考えずにその調子の良いキャッチフレーズを何度も読み上げた。

まぁでも子供と言えどもそう言われれば『差別はいけないんだなぁ』とか『世界は平等なんだなぁ』とザックリ意味を理解して、図画工作の時間には地球の周りで世界中の人たちが手を繋ぎ合うピースフルな絵を描いて先生に提出したりする。

標語を通じて
” 守ろう人権 “の部分では「友達に悪口を言わない」
” 無くそう差別 “の部分では「自分との違いを否定しない」
” みんな一つの輪になって “の部分では「全員が平等で仲良く日々を過ごしましょう」
と教えられた。

でもそんな事はさすがの小学一年生の小さな脳みそのボクたちでもふだんの日常生活の経験から既に理解していたし、集団生活の中で傷付けず、傷付かずに済む方法は子供なりに考えていたりした。
悪口を言われたり言い返したり、それがじゃれ合いから発展してしまい喧嘩になって先生や親、はたまた喧嘩相手の親に怒られたりして「ごめんなさい」と頭を下げ合う実体験から、自然とやって良い事悪い事など最低限の社会のバランスは身についていたりしたように思う。

ではなんでわざわざこんな分かりきった事を大声で叫ぶ授業があったのだろうか。

いつの時代も、どんな人間にとっても通用する絶対的な道徳はない。-北野武-

本書”新しい道徳”にて北野武は語る。

極端な例では戦国時代における敵の首を切り落として持って帰ってくるという武士の道徳であったり、ギリシャ時代の奴隷制度による支配関係における道徳など、権力者の都合でいくらでも変容してきた道徳の姿に一石を投じつつ、現在の道徳教育のあり方にメスを入れる。

最もユニークだと感じた見解が「原始人に道徳はあったのか?」という考察。
人口たったの7万人足らずの原始人集落が、ある程度の道徳観念をもった規律に従って行動した結果が現在の地球人口の発展に繋がったのではないかという考え方だ。

これには確かに一理あるように思う。
そう考えると道徳の在り方が何となく見えてくるからだ。

「原始人たちがいたそれぞれの集落」や時代と共に移り変わる「教育現場」、世界中の「地域」や「国」といった細分化すればきりのない個々の「枠組み」の中で秩序や規律が乱れないがために必要な共通感覚が道徳という考え方なのではないだろうか。広辞苑で記される意味合いとも合致してくる。

概ね先生が子供だったボク達に教えてくれた道徳にはクラスという枠組みや学校という社会を過ごすために必要な要素が大いに含まれている。

その反面、学期末にはきちんと成績表という形で個々の教科別の優劣が記される事に対して「平等じゃないじゃん!」と声を挙げる子もいたりした。

まぁこれは差別じゃなくて平等な判断に基づく個々への評価なんだと思うけれど、子供にとっては『全ては平等に』と教えられたものだから、ABCの3段階で区分され二度と覆らない結果として提示される成績表なんかは差別以外の何者でもなくてその意見もあながち理解は出来る。

ただこういう経験からひねくれ者のボクが学んだ事は、
「友達として”平等”な立場で日々を過ごす事」と
「行動や態度を他人に”平等”に評価される事」において『平等』の意味や尺度は変化するんだという事。
そして『全ては平等に』というフレーズを自分善がりに理解する事で自分が不都合に思える物事に対して異論を突きつけることもまた可能なのだなという事。

まぁ先生はこの標語を元気よく読んでみましょう!としただけで、
考え方を押し付ける事はしなかったし、ボクたちを怒るときは「道徳の授業で教えたでしょ!!」とは決して言わなかった。怒るときには子供だったボクたちよりもはるかに経験値を積んだ人間として「良心」の在り方を指南してくれたんだと思う。

子供だったボクたちの事を思って怒ってくれた心のこもった言葉は道徳の標語なんかよりも全然勉強になった。

結局、道徳って?

じゃあ授業で受ける道徳ってなんのか?

考え方もまた多様だし、捉え方も様々。
数学のように明確な答えがない考え方なだけに考える余地があるし、その様々な考え方に触れる事でまた世の中には色々な考え方があるんだなと知ることが道徳の醍醐味なのかもしれない。

でもそれを客観的に判断したり定義したりするに至るには小学生の低学年だったボクにはあまりにも幼すぎたようにも思うし、逆にあの日のあの授業があったから今になって振り返ってああでもないこうでもないと考えをよぎらせるいい機会にもなっていたりもする。

子供の頃は子供の頃なりに考えていたし、
大人になってからも大人になった経験値の分考えられるようになった。
たぶん今の子供たちも今の子供たちなりに考えは持っているし、
大人は大人なりに見守ったり怒ったりというバランスを保ってあげることが大切なんじゃないかなと思う。

実は2018年4月より、小学校において道徳が「教科化」される事が大きな話題となっている。
文科省が「考え、議論する道徳」を目指すということで、正式な教科書も採用され、細分化されたテーマを多様な角度から考えることを重視するようだ。

個人的には道徳なんて個々で耕す畑のようなものなのかなと、この本を一通り読み終えて考えるようになった。

どんな芽が出るのか、どんな花が咲いて、どんな実やはたまた作物が育つのか。
どんな種や苗を植えようかだとかを判断したり、どんな水の引き方をするのが理想的なのか個々に工夫するようになって、そのうち水害や害虫の被害の経験なんかもしてその対策もしっかりと覚え始めるし、劇薬の農薬の存在なんかにも気がつく。
便利な経験値という名の機械もあったりするけど、他人が勝手に機械で一気に整えたりしちゃうと当の本人は傍観者にもなりかねないし、何より独自性を削がれちゃって何の楽しみも育たない畑になりかねないだろう。

大人は良い肥料になってあげる程度のバランスが道徳を育む良い距離感なんじゃないかなとこの本を読んで改めて考え直した良いきっかけとなったし、気付けばというか当然の事ながら自分は大人の立場で道徳を考えるようになったんだなと気付く。そりゃそうなんだけど、えぇ、、いつ大人になったんだろ。

もっと道徳学んでおいたら良かった。

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